MESSAGE
HISTORY
私が歯科医になったのは1999年(30歳)のこと。
1968年に東京で生まれ、18歳まで東京で育ち、高校卒業後インターナショナルな医者になることを目指して単身台湾へ留学。しかし、台湾の大学を中途退学し、4年間の浪人生活を経て1993年(24歳)で国立鹿児島大学歯学部に入学し、1999年に卒業いたしました。
卒業と同時に現在の妻と結婚し、日本最大規模の歯科グループで、日本でもっとも厳しいドクター教育システムを持つ新潟の徳真会松村歯科に入社いたしました。その後、たくさんの方々のご指導の結果、駐車場台数50台以上、一日120人ほど来院する松村第二歯科長岡診療所の院長となることができました。
しかし大きな問題が生じました。新潟県は日本で1番雪の多いところで、冬場は1日で40センチくらい積もることもよくありました。水がきれいでお米やお酒、果物がおいしくて、私は新潟がとても好きだったのですが、私にはどうしても合わないものがあったのです。
それが“新潟の冬の空と天気”でした。
私は生まれたときから太平洋側で育ったため、冬は寒くても空は晴れておりました。私は根っからの釣り好きで、冬場にいくら寒くても空が晴れてさえいれば、寒さを気にならない釣りバカでした。ところが新潟は11月から3月のおよそ5ヶ月間天気はほとんど曇りか雨か雪。空はどんより曇っていてほとんど晴れることがありませんでした。
また冬の日本海は荒れていてその時期は釣りがほとんどできなくなってしまい、そのことが非常に苦痛だったのです。
私に転機がおとずれたのは歯学部の4年生のときでした。
それは予防歯科の特別講義で当時福岡歯科大学予防歯科の助教授だった境先生の講義を受けたときのことでした。
境先生の講義内容は「フッ素の虫歯予防効果」についてでした。
MY DREAM
DENTAL CLINIC
人の役に立ち、人に喜んでもらえる仕事がしたい。
患者さま、パートナーから“あなたに逢えてよかった”と言っていただける歯科医師になりたいし、歯科医院を作りたい。
病気で苦しむ人(肉体的だけでなく精神的にも)に“元気”“やる気”“勇気”“安らぎ”と“安心感”を与えられる歯科医院を作りたいし、そういう歯科医師でありたい。
子供たちに夢を与えることができる歯科医院を作りたいし、そういう歯科医師でありたい。(自分が作った歯科医院でいきいきと働く自分たちの姿やスタッフの姿を見て、子供たちが将来自分達もああなりたいと憧れてくれるような歯科医師になりたい。)
子供からお年寄りまで幅広い患者さまが通院していただけるような歯科医院を作りたい。またその子供たちが大きくなって、その子達自身が親になっていった時にその子供たちの世代も診させていただけるような歯科医院を作りたい。
歯科医師という仕事を自分の生涯の仕事として、自分自身が仕事をしていて楽しく、共に働くスタッフも仕事が楽しい職場を作りたい。
ドクターも衛生士も歯科助手も受付も自分たちの仕事に自信と誇りをもって、物心共に豊かに、生涯現役で仕事を全うしたいと思えるような歯科医院を作りたい。
院内治療は常に先進の医療機器を導入し、技術研鑽を惜しまず、常に最高レベルの治療を行う。スタッフはきめの細かいサービス、行き届いた気配りと心配りを実践し、患者さま満足度日本一の歯科医院を作りたい。
できる限り歯を削らずに、歯を抜かずに、虫歯の予防から歯周病の予防を実践していきたい。歯並びが悪くなることの予防、歯がなくなることの予防を行い、歯科恐怖症の方でも安心して治療を受けることができる無痛治療を行う歯科医院にしたい。
心からの「愛」にあふれ、なによりも「調和」を大切にし、何事にも「感謝」できる歯科医院づくりをしていきたい。
RECRUIT
採用サイト